正しかろうが間違いだろうが、結果、救いになるならとりあえずなにかに対して信心するのは大切なんじゃないかな。と最近は思いを改めている。
〇〇神、仏、霊、宇宙からの交信、占いいわゆるスピリチュアルを信じてないって人はそこそこいる。
自分は半信半疑であるが同時に、そういうのもあってもいいなって感じもある。そっちの方が救いがある気がするから。
まずこの手の話、スピリチュアルの話題を真面目にすると、
カルトだの、科学的にあり得ない、脳のバグで実証されていている、マジックで必ず不思議なことには「なにか」タネがあるって否定される。最近は特に統一教会の問題、宗教による対立の過激さから敏感になっている風潮がある。
前提として、そういった不可視のモノについての存在の有無については本当のところはわかりえない。ちゃんといるともいないとも証明ができないからだ。だけど、少なくとも何かしろみんな生きていく中でなにかの「宗教」を信じて生きているはずだ。これが正しいだろうと思う自分の感覚それの拠り所が宗教でないか。例えば「常識」も「資本主義」、変な話「無宗教」っていう立場も宗教だと思う。常識は生きてる環境で異なる、自分を取り巻く周りがあたりまえに「していること」を当たり前と思っている、つまり信じている。資本主義はお金が稼げる、もしくはあれば偉い、すごい、能力が高いと信じている。無宗教を謳う人も今ある宗教団体にはないだけで、自分の思う正しさをなにか信じる拠り所をもっている。
ただ基本的にあらゆる事象、モノというのは何も無い。と思う。無いようで有る。今ドタバタしている上の階の足音も、救急車のサイレンもきこえているが、存在はしていない。だれもが経験する「空耳かもしれない」でしょ?。でも有る。と感じる。
存在が存在になりうるには自分という一人称ではなく、相手という二人称でもなく、自分も相手も認識する「つながり」が必要だ。先ほどの例でいうと救急車のサイレンは自分だけなら存在しない、でももう1人いてその人も知覚したら、そのサイレンなとりあえず存在する、逆もまた然りで自分と相手が入れ変わっても同じ。ただ救急車は存在はこの時点ではしていない。録音した音を誰かが流してるかもしれないし。このふたり、自分と相手仮にaさんとすると、少し経って新しくbさんがきて、「駅で倒れた人がいて救急車がきてたよ」と話す。ここではまだ救急車は存在していない、存在を近くするためには、この場合自分だけでなく、aさんも駅までいって「2人で」確認してやっと救急車が存在することを許される。つまり関係性があって、そのものに繋がりがある故に、有るになる。
はしさんは考えるのが好きでいつもふとしたときに、このような変なスイッチが入る。
小難しいことを書いて、あえてオチをつけさせてもらうなら、最近パワーストーンというただの石をひたすらすごいご利益のある石と信じて拝んでみてます🤣笑
いまはその辺に落ちてる石だけどね🙃
でも模様がキレイなんだよ!きっと〇〇石の神様のありがたーい石に違いないんだ!よく見たら六芒星にみえ、、なくも無い
このストーリーを他の人に言って信じ込ませたらかちがあがる😐笑
カルトになるかカルチャーになるか
人をおとしめたり、ダメにする習慣はカルトになるけど、このストーリーで誰かを救いカルチャーになるよね笑
パワーストーンでいったらクリスタルかな
イワシの頭でもいいけど、神秘期的なモノであれば隕石なんて最高にストーリー性にパワーがあっていいな(*´∀`*)w
ちなみにイワシの頭も信心からの語源は、イワシは臭いにおいはするから鬼(厄災)が嫌いで、柊も痛いから鬼は嫌っているという云われから来ている。それが地域ごとに解釈がかわり、旧お正月である節分の日にイワシの頭をぶら下げている習慣があって、つまりそういうことである。
なんでもいいからしんじてみるのも面白い
小田和正の曲の歌詞「疑うより信じていたい」という言い回しのように信じてみるのもまた一興
すみません、おわり💤